1878年(明治11年)1月、現在の札幌市東区丘珠町にあたる丘珠村で、ヒグマが開拓民の住居に侵入し、複数の死傷者を出す惨事が起きました。「札幌丘珠事件」または「丘珠ヒグマ事件」と呼ばれるこの出来事は、北海道の開拓史に残る重大な熊害事件です。事件の背景には、冬眠中のヒグマを狙った猟師との接触や、開拓途上の集落を取り巻く厳しい自然環境がありました。
事件から約150年が経過した2026年現在も、札幌市街地へのヒグマ出没は人々の暮らしに関わる課題です。札幌丘珠事件の真相を知るには、当時の記録を読み解き、死者数をめぐる記述の違いや伝承の変遷を整理する必要があります。北海道立文書館に残る開拓使公文録や北海道大学の資料、後世の研究を手がかりに、発生の経緯、被害者、原因、そして現在のヒグマ対策につながる教訓を解説します。
【事件の真相】札幌丘珠事件とは何が起きたのか
札幌丘珠事件は、明治時代の北海道で発生したヒグマによる人身被害事件です。事件の中心となった場所は、当時の札幌郡丘珠村。現在の札幌市東区丘珠町周辺にあたります。
当時の北海道では開拓が進められていましたが、札幌の周辺には原生林や未開墾地が広がっていました。人間の居住地とヒグマの生息域が明確に分かれていたわけではなく、農地や炭焼き小屋、開拓民の住居が野生動物の行動範囲に入り込んでいたのです。
事件では、堺倉吉とその長男・留吉が襲われ、妻のリツや雇い人も被害を受けました。加えて、同じヒグマと関連づけられる先行事件では、山鼻村で猟師の蛯子勝太郎が命を落としています。
この事件が単なる一度の襲撃として語られない理由は、ヒグマが複数の地域を移動しながら人間と接触したとされる点にあります。山鼻村での被害から丘珠村への襲撃までを一連の経緯として捉えることで、被害の全体像が見えてきます。
また、事件の加害個体は捕獲後、札幌農学校(現在の北海道大学につながる教育機関)に運ばれ、解剖されたと伝えられています。胃の内容物や剥製に関する記録が後世に残ったことも、札幌丘珠事件が歴史資料や研究記事で繰り返し取り上げられる理由の一つです。
【時系列で検証】札幌丘珠事件の経緯とヒグマの移動
札幌丘珠事件の経緯を理解するうえで重要なのが、事件の日付とヒグマの移動経路です。北海道立文書館に所蔵されている開拓使公文録には、明治11年1月に発生した熊害と、その後の救援に関する記録が残されています。
記録を紹介した研究記事などによると、1月11日に山鼻村で蛯子勝太郎がヒグマに襲われて死亡し、その後、同じ個体とされるヒグマが平岸村、月寒村、白石村方面を経て北上したとされています。1月18日未明には丘珠村の堺家に侵入し、複数の人を襲いました。
一方、後年の文献には事件を1878年12月25日とする記述もあります。北海道帝国大学教授の八田三郎が明治44年に刊行した『熊』などに見られる日付ですが、近年の史料検討では、別の熊害事件との混同が生じた可能性が指摘されています。北海道立文書館の公文書に基づく記録を重視すると、事件の中心となる日は1月18日と考えるのが妥当です。
| 時期 | 出来事 | 史料から読み取れること |
|---|---|---|
| 1878年1月11日 | 山鼻村で蛯子勝太郎がヒグマに襲われ死亡 | 丘珠村の襲撃に先立つ熊害として記録されている |
| 1月12日ごろ | ヒグマが平岸・月寒・白石方面を移動したとされる | 開拓使関係の記録に移動経路が記されている |
| 1月18日未明 | 丘珠村の堺倉吉宅にヒグマが侵入 | 堺倉吉と長男・留吉が死亡し、妻や雇い人も被害を受けた |
| 1月19日 | 雇い人の酉蔵が死亡したとする記録がある | 襲撃直後の死傷者数と、後日の死亡を反映した人数には違いがある |
| 事件後 | ヒグマが捕獲・射殺され、札幌農学校で解剖された | 後世の記録に剥製や胃の内容物に関する記述が残る |
なお、上表は主な出来事を整理したものであり、各資料の記載が完全に一致しているわけではありません。特に死傷者の内訳については、襲撃直後の報告と、後日に判明した死亡を含む記録を区別する必要があります。
【死者数と被害者】なぜ記録によって人数が異なるのか
札幌丘珠事件を調べる際、多くの読者が疑問に感じるのが死者数です。北海道大学の広報媒体「いいね!Hokudai」では、1878年1月の丘珠村の事件について、死者3人・重傷者2人という被害が紹介されています。一方、北海道立文書館の公文書を再検討した近年の研究記事では、関連する一連の熊害による死者を4人とする整理が示されています。
この違いには、事件の範囲と死亡時点の問題が関係しています。山鼻村で命を落とした蛯子勝太郎を含めるかどうかに加え、丘珠村で襲撃を受けた雇い人の酉蔵が翌19日に死亡したという記録を反映するかどうかで、集計結果が変わるのです。
北海道立文書館が公開する公文書目録には、1878年2月22日付の「札幌郡丘珠村平民堺倉吉小家ヘ猛熊乱入四名死傷右ノ際雇人石沢定吉堺リツヲ救援ニ付賞与ノ件」という文書が登録されています。これは、事件の際に堺リツを救援した雇い人・石沢定吉への賞与に関する記録です。
この記録を紹介した研究記事では、堺倉吉と長男の留吉が即死し、リツと酉蔵が重傷を負い、酉蔵は翌19日に死亡したとする文面が取り上げられています。これに山鼻村での蛯子勝太郎の死亡を加えると、関連事件全体では死者4人、負傷しながら生き延びた人1人という整理になります。
被害者について、確認できる範囲で整理すると次のとおりです。
- 堺倉吉:丘珠村の開拓民。自宅に侵入したヒグマに襲われ死亡。
- 堺留吉:倉吉の長男。父とともに襲われ死亡。
- 酉蔵:堺家の雇い人。重傷を負い、翌19日に死亡したとする記録がある。
- 堺リツ:倉吉の妻。重傷を負ったが、石沢定吉の救援によって難を逃れたとされる。
- 蛯子勝太郎:山鼻村でヒグマに襲われ死亡。丘珠村の襲撃に先行する被害者として、一連の事件との関係が論じられている。
このように、札幌丘珠事件の死者数は、単純に一つの数字だけで説明できるものではありません。丘珠村での襲撃そのものと、山鼻村から続く一連の熊害を分けて考えることが、記録の違いを理解する鍵になります。
【開拓民の暮らしと札幌農学校】事件を伝えた史料の意味
札幌丘珠事件を現代の住宅街で起きるヒグマ被害と比較するとき、見落とせないのが当時の住環境です。明治初期の丘珠村は開拓の途上にあり、現在の札幌市東区のように住宅や道路が整備された地域ではありませんでした。
後年の地域史や研究記事では、当時の開拓地について、街道の両側に大木が残り、樹木を伐採して焼き払いながら土地を開墾していた状況が紹介されています。人々は農業や炭焼きなどを通じて生活基盤を築いていましたが、森林と集落の境界は曖昧でした。
開拓民の住居も、現在の建物のように野生動物の侵入を防ぐことを前提に設計されていたわけではありません。簡素な小屋では、ヒグマが接近した場合に安全を確保することが難しく、家の中にいること自体が必ずしも安全を意味しなかったのです。
加えて、事件の加害個体は捕獲後に札幌農学校へ運ばれ、解剖されたと伝えられています。胃の内容物から被害者の遺体の一部が確認されたという記述は、明治時代の動物学や自然史の記録と結びつき、事件の記憶を後世に残すことになりました。
ただし、現在の北海道大学植物園博物館に関する大学の広報記事では、このヒグマの剥製や胃の内容物は収蔵資料として紹介されており、一般展示されている標本と同じように見学できるとは限りません。現在の展示状況と、歴史資料として保管されていることは区別して理解する必要があります。
札幌丘珠事件の史料的価値は、凄惨な被害の記録にとどまりません。開拓使の行政文書には、被害者の救援や救援者への賞与に関する情報も残っています。そこからは、被害の実態だけでなく、当時の行政が事故をどう把握し、危難に対応した人をどのように評価したかという社会史的な側面も読み取れます。
【札幌丘珠事件の原因】ヒグマが人を襲った理由は何だったのか
札幌丘珠事件の発端として広く紹介されているのは、冬眠中のヒグマを狙った猟師との接触です。北海道大学の広報記事などでは、猟師が冬眠中のヒグマを仕留め損ね、手負いになった個体が移動を始めたことが事件につながったと説明されています。
ヒグマは冬の間、巣穴で冬眠状態に入ります。しかし、冬眠中の個体が人間に刺激されたり、負傷したりすれば、通常とは異なる行動を取る可能性があります。事件のヒグマについても、冬眠穴を襲われた後に移動し、複数の地域で人間と接触したという経緯が語られています。
ここで注意したいのが、「冬眠明けのヒグマ」という表現です。事件が起きたのは1月であり、一般的な春の冬眠明けとは時期が異なります。史料や研究記事では、冬眠穴を持たずに徘徊するクマを指す「穴持たず」という言葉や、手負いの個体が移動したという説明が登場します。事件を単純に「春先に目覚めた空腹のクマによる襲撃」と説明すると、時期や経緯を取り違えるおそれがあります。
では、ヒグマが人を襲った理由は何だったのでしょうか。事件の記録から考えられるのは、次のような複数の要因です。
- 負傷による行動の変化:猟師との接触で負傷したという説があり、通常の行動から逸脱した可能性がある。
- 食物を確保しにくい冬の環境:冬季は自然の餌が限られ、移動や採食の条件が厳しくなる。
- 人間の生活圏との接近:開拓小屋や炭焼き小屋がヒグマの行動範囲にあり、人間との接触を避けにくい状況だった。
- 襲撃後の行動:一度人間を襲った個体が、その後も移動中に人を襲う危険性が生じた。
ただし、これらは事件の経緯や当時の環境から考えられる要因であり、ヒグマの心理を直接確認した結果ではありません。胃の内容物から人間の遺体の一部が見つかったことも、最初から人間を獲物として探していたことを証明するものではありません。
重要なのは、ヒグマの行動を人間の価値観で「凶暴」「残忍」と評価するだけでは、事故を防ぐための情報が得られないという点です。負傷、食物環境、人間との距離、逃げ場の有無など、複数の条件が重なることで重大な事故が起こり得ます。
【プロの結論】2026年の札幌市東区と現在のヒグマ対策
札幌丘珠事件は、北海道の開拓時代に起きた遠い過去の出来事ですが、札幌市街地とヒグマの接触という問題は、現代にもつながっています。
2021年6月には、札幌市東区の住宅街にヒグマが出没し、住民や自衛隊員など4人が重軽傷を負った後、丘珠空港付近で射殺される事件が起きました。北海道大学の広報媒体でもこの出来事が取り上げられ、同じ東区で約143年前に発生した丘珠事件との歴史的なつながりが紹介されています。
もちろん、2021年の個体と明治11年の個体に直接の関係があるわけではありません。共通するのは、ヒグマの生息域と人間の生活圏が接する場所で、重大な人身被害が発生し得るという点です。
2026年の状況を把握するうえでは、北海道警察や北海道庁が公開している情報が参考になります。北海道警察の2026年9月掲載情報によると、2025年にはヒグマに襲われた人が6人に上り、2人が死亡、4人が負傷しました。また、2026年については、4月26日にクマの駆除中だった男性が襲われて負傷した事案が掲載されています。
同じ北海道警察の情報では、過去5年間のヒグマによる人身被害者は36人で、その約60%が4月から8月に発生したとされています。これは、春から夏にかけて野山に入る機会が増え、人間とヒグマが遭遇する可能性が高まることとも関係します。
一方、北海道庁はヒグマによる人身事故の概要や発生要因、再発防止策を公表しています。2026年には、北海道ヒグマ管理計画に基づく春期管理捕獲も実施されました。人里周辺に生息するヒグマの低密度化や、人間への警戒心を維持させること、対応にあたる捕獲者の育成などが目的として掲げられています。
こうした対策は、単に個体を捕獲するだけでなく、人間の生活圏にヒグマが繰り返し出没する状況を抑え、事故の発生を防ぐことを目指すものです。地域の状況に応じて、出没情報の共有、誘引物の管理、住民への注意喚起、必要な場合の捕獲などを組み合わせる必要があります。
一般の人ができる対策も明確です。北海道警察は、野山に入る前に市町村の出没情報を確認すること、複数人で行動すること、鈴やラジオなどで人の存在を知らせること、食べ物やごみを放置しないことを呼びかけています。ヒグマのふんや足跡を見つけた場合は引き返し、住宅街でヒグマを目撃した場合は110番通報するよう案内しています。
【プロの結論】札幌丘珠事件が現代に残す最大の教訓は、事故をヒグマの危険性だけに帰すのではなく、人間側の環境整備や情報共有、初動対応まで含めて考えることです。明治時代の開拓地では、住居の構造や森林との距離が被害を左右しました。現在は行政の情報発信や捕獲体制が整備されている一方、市街地への出没を完全になくすことは容易ではありません。歴史から学ぶべきなのは、ヒグマを過度に恐れることでも、危険を軽視することでもなく、地域の情報に基づいて行動し、人と野生動物の不必要な接触を減らす姿勢です。
【札幌丘珠事件】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:札幌丘珠事件はいつ起きたのですか?
A1:北海道立文書館の開拓使公文録などを基にした記録では、1878年(明治11年)1月18日未明に丘珠村の堺倉吉宅で襲撃が発生したとされています。後年の文献には12月25日とする記述もありますが、別の熊害事件との混同が指摘されています。
Q2:札幌丘珠事件の死者数は何人ですか?
A2:死者3人・重傷者2人という紹介がある一方、史料を再検討した近年の研究では、山鼻村での蛯子勝太郎の死亡と、丘珠村で重傷を負った酉蔵の翌日の死亡を合わせ、関連する一連の事件で死者4人・負傷生存者1人と整理されています。どの範囲の被害を数えるかによって数字が異なります。
Q3:事件のヒグマは現在も見られますか?
A3:加害個体は捕獲後に札幌農学校へ運ばれ、剥製や胃の内容物が歴史資料として保管されたと伝えられています。北海道大学の広報記事では収蔵資料として紹介されていますが、一般展示されているとは限らないため、見学の可否は施設の最新の案内を確認する必要があります。
札幌丘珠事件は、1878年1月に北海道の丘珠村で発生したヒグマ襲撃事件です。山鼻村での先行する熊害、丘珠村の堺家への侵入、雇い人の死亡をめぐる記録などをたどると、開拓時代の自然環境と人々の生活が密接に結びついていたことが分かります。
事件の死者数は、北海道大学の広報記事などで紹介される従来の集計と、北海道立文書館の公文書を再検討した研究記事の整理で異なります。特に、襲撃直後の報告と翌日の死亡、山鼻村での先行被害をどう数えるかが重要な論点です。日付についても、明治11年1月という公文書に基づく記録と、後年の文献に見られる12月説を区別して理解する必要があります。
そして、札幌丘珠事件を歴史上の悲劇として振り返るだけでは十分ではありません。2026年も北海道ではヒグマによる人身事故への警戒が続いています。地域の出没情報を確認すること、食べ物やごみを放置しないこと、痕跡を見つけたら引き返すこと、住宅街で目撃したら警察へ通報すること。こうした基本的な行動が、人とヒグマの接触を減らす第一歩です。
歴史資料を丁寧に読み解くことは、過去の被害を正しく記憶するだけでなく、現在の安全対策を考える手がかりにもなります。札幌丘珠事件の経緯と教訓を知ることは、北海道の自然と共存しながら暮らすために、今も意味を持ち続けています。